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AIJ学会賞受賞記念 公開研究会 2021年6月19日

更新日:2023年2月20日


 

研究室が継続的に関与してきた小泉地区の集団移転の取り組みが、2021年度の日本建築学会賞(業績)を受賞したことを受け、研究室主催の公開研究会を実施しました(参加総数62名)。

受賞したのは復旧復興特別賞といって、大規模災害の復旧復興に関する業績を5年ごとに公募・表彰を行うもので、2年の期間をかけて審査されるものです(詳細はAIJ学会賞のページを参照)。

今回の研究会は、研究室と小泉地区の関わりを改めて振り返ることでその意味や責任について考えようと、計画に携わった森先生と移転後の調査を行っている坪内とで行う公開ゼミのようなかたちで進めました。

まず、坪内から小泉地区で行っているインタビュー調査と利用実態調査の報告をもとに、計画に携わった森先生に災害による集団移転を住民の方々とのワークショップで行う意味について問いかけました。詳細を端折って言えば「ワークショップは本当に地域の共有価値にもとづいているのか?、計画になかったものをどのように見るのか?」の二つで、森先生からは「ワークショップとはデザイナーが生活環境を構築していくための手法で、意思決定の基盤をつくるフェーズと空間をつくるフェーズがあり、両者をどのようにリンクさせていくか、その際にユーザーの関与や判断の是非がある」という答えをいただきました。ディスカッションでは、小泉地区の集団移転は災害時による計画であり、短期間での成果や旗振り役としての役割がデザイナーには求められ、限界が多い中でより良い妥協を模索していったのが計画行為の実質だったことを改めて確認できました。

その後、森先生からは小泉地区の取り組みに関わる以前と以後の話題も含め、地域のコミュニティのかたちの決定へ直接的に関与することの意味や責任についてのお話がありました。その上で、計画とは将来の振れ幅を持った初期値を設定していく作業であり、外部のデザイナーが参与することで当事者が将来への想像力を見定めることができたり、視点や立場によって異なる複数の合理性を統合できたりする可能性があると考えており、研究活動はそうしたデザインに関わる決定の善し悪しを判断する際の重要なリソースやエビデンスになっているということでした。

スライドの抜粋


「計画行為=初期値の設定」という見立ては、いま構築する環境に過去や未来の空間的な手がかりを埋め込んでいくようなイメージが思い起こされました。個人的にポイントだと思ったのは、時間の概念が重視されていることです。

日本における計画学は高度経済成長とともに展開してきた経緯があり、その成果は各種のビルディングタイプや制度の発展へとつながっています。しかし、縮退期の複雑化、多様化する社会の中で計画は前提となる課題が予め与えられるものではなくなり、計画自体に対する目的の設定や価値の明示といったそのものの存在意義から立ち返って求められるようになっていきました。個人的な実感としては、こうした状況下では現在という時間をどのように認識するかという現状把握の仕方が計画にとってはクリティカルで、その際、現状を過去と未来の関係の中で認識できているか、過去・現在・未来の三つが連続した状態で捉えられているかが重要な気がしています。

現状が不確かなものになると、私たちは置かれた状況に折り合いをつけていくことで精一杯になり、不自由になってしまうことがしばしばあります。例えば、地方でよく耳にする声として、「この地域なんかどうしようもない」というものがあります。これは当事者の声としてはリアリティがあるものの、高度経済成長という過度な成長志向の時代を経た影響が大きく、時代を遡ってみると実は地域の人口は現状程度で昔はそのスケールを維持していた、なんてことがあります。あるいは、悪化する地球環境に対してSDGsといった目標は一見正しく誠実にみえますが、目標だけが取り沙汰され、これまでどおりの社会では世界は崩壊に向かっていくと認識している人は実際には多くないはずです。これらは、縮退の中でそう遠くない過去にとらわれて将来を描くことが困難になってしまったり、将来の目標だけがあり過去や現在に目を向けていなかったりと、現状の認識が過去や未来とつながっておらず、不連続ないまに対し何とか折り合いをつけている状態だと捉えることができると思います。そして、そうした認識は、いまの行き詰まりや立ち行かない現状に少なくない影響を与えているように感じます。

先生のお話を伺っていて、「初期値の設定としての計画行為」には、高度経済成長期の近過去から現状をリセットさせ、持続的な未来への過程、経路の第一歩をつくっていくような期待や可能性が思い浮かびました。それは、過去から現在までの軌跡から見出される空間的な仮説を投げ込み、それが手がかりや契機となってより良い未来にガイドされていくことにつながるはずです。


小泉地区でみられる日常的なシーン


建築計画は、映画における脚本に喩えられることがあります。これは、設計する建物に責任を持つのが建築家であり映画でいう監督だとする一方、その前に何をつくるかを検討するのが建築計画であり映画でいう脚本だとするものです。このとき、建物のユーザーは映画の俳優であり観客です。ただ、今日の建築や計画を取り巻く状況は、映画でいう映画と現実、俳優と観客を分けるフィルムや映画館のような仕掛けとして機能していたスクラップアンドビルドやフローを中心とした社会が希薄なものとなり、建物の利用者は計画や設計、利用を同じ日常の中で実践していくことが強く求められるようになりました。つまり、私たちは、計画・設計や利用を事前、事後といった時間的なフェーズで分けるべきではなく、過去と未来を連結させるものとしてこれらの要素を捉え直していく必要があります。その際、こうした考え方をする場合の計画とは何を指すのか、その善し悪しを誰がどのように判断できるのかといった問題が新たに浮上していきます。 先生のお話は、こうした問題に直面しながらも過疎化が進む北海道で計画の実装に関与する立場からのもので、自分がこれからどのような態度で計画と向き合っていくのか大いに考えさせられました。


最後に、僕自身は小泉地区にお邪魔するようになって6年目を迎え、訪れる度、住民の方々と会話をする度にいつも上記のような課題を考える機会をいただいています。今後も小泉地区にお世話になりながら、建築計画ができることが何なのか、引き続き考えていきたいと思います。


D6 坪内

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